2008年7月夏・編集発行・野尻湖フォーラム

野尻と私のご縁

前田道雄

ご縁ということ

 ご縁とは不思議なものである。
 私は若いころには野尻とはどんなところか知らなかった。
 今から35年程前にそれまでの職場を辞めて転職した。その転職先のビルの一室にSさんという弁護士がいて、野尻に別荘地を造りつつあった。彼は浦和の旧制高等学校で野尻の神山という土地を持っているIさんと同級生というご縁があった。Sさんはひとつの理想郷でも造ろうとするように、非常な熱意を持って別荘地造成に臨んでいた。その同じビルに銀行があり、私はもらったばかりの退職金をその銀行に預けた。その銀行の支店長とSさんは親しい間柄だった。偶然と偶然が重なり、どこをどう回ったものか、私は野尻の別荘地の一角を買って、家を建てることになった。ご縁の重なりである。

 私は「縁」というものに関して、次のような仮説を持っている。
 最近の科学で遺伝子なるものが発見されてその研究が進んでいるが、私は、その遺伝子のような単位がこの世界に満ちていて、その遺伝子同士が組み合わさると形をなす。その遺伝子の性質はさまざまなので、組み合わせによる形は無数であって、そのうちのひとつに人があると。どの遺伝子とどの遺伝子とを結んで組み合わせるかということは見えざる手のなす業であって、我々の計り知れない不思議なものである。これを「縁」という。この夢のような仮説が実証されないものかと、密かに期待しているのである。

 縁というものはわからないものであるが、一面不思議なおもしろいものである。35年ほど前の転職を機にしたご縁で、今では娘が野尻に嫁ぎ、孫が2人生まれて育っている。九州にいる息子も事あるたびに野尻にやってくる。さらに、黒姫山の麓に私のアトリエとして小屋を建てたが、その近くに、兵庫にいる弟が別荘を建てて四季折々にやってくるようになった。彼の息子たちの家族も休暇のたびにやってくる。神山の小屋にはさまざまな人たちが訪れてくれた。たくさんの若者たちにも宿を提供したが、そのうちのひとりが私に礼を述べたので、笑談に「それなら、みんなで私の銅像でも建ててくれよ」と言ったところ、その若者は「この辺は雪が深いから、冬はその銅像の頭を踏むことになりますね」と言い返した。これは完全に私の負けである。後で聞いたところ、あれはヒヤカシではなく、本当にそう思ったのだ、と言っていた。野尻は賑やかである。普段住んでいる東京には親戚らしいものはほとんどいないし、思えば、深いご縁になったものである。

 これから100年の後、いろいろなご縁が重なって世の中がどう変化することか、もう私の知ることのできないことであるが、野尻も私の子孫もおおいに変化することだろう。

野尻というところ

 野尻の家に行くのに、はじめのころは上野から列車に乗った。休みの時期が集中するので、座席指定券を買うのに苦労し、何とか手蔓を頼って求めたものである。指定券が取れなくて、席なしで乗ったこともある。その後、自家用車で通うことになったが、高速道のない時代、軽井沢越えのルートで、朝のラッシュ前に東京の家を出て野尻に夕方着と一日がかりだった。今では府中から信濃町まで高速道ができて、あっという間に着いてしまう。楽になったものである。もうあの頃の道筋を通ることはないであろうが、道筋の町々には思い出も多い。ドライバーが老齢になったのと荷物の積み下ろしが大変になったことで、ここ数年来、若いドライバーに行き帰りを頼まざるを得なくなっている。

 野尻の夏は涼しい。2002年の東京は酷暑であったらしい。私は野尻で随分楽をした。春の唐松の芽吹きの色も美しい。秋の紅葉も見事である。積雪の冬はこのごろでは来ることができずにいるが、若いころスキーで楽しんだ。しかし、30年という年月はさまざまな変化をもたらした。家を建てた当時はこの神山から周囲の山々と野尻湖が眺められたが、今では木が生い茂り、足場も悪くなって、それらの眺望がきかなくなった。野尻湖の水質も環境も少しずつ変化した。私は野尻湖がもっと浄化されて、日本の湖沼中1、2になることを夢見ている。それを売りにして人を呼び込むのだ。湖水の透明性を望むと同時に、周辺の山の樹木の手入れ(間伐や下草刈り)も必要である。

 野尻は私にとって、この現世を楽しむ絶好の土地なのである。今はいろいろな都合で東京に住んでいるが、できるなら、野尻に行って住みたいものである。

 
【編集部より】
 本会報「The Forum」のために題字やたくさんの絵や書を描いてくださった前田道雄さんが2008年1月、94歳で永眠されました。心よりご冥福をお祈りいたします。この遺稿は、平成14年末に書かれた草稿をもとに、ご家族の了承を得て、編集部でまとめさせていただきました。

花