
栗飯
嫁いだ娘が婿と一緒にやってくる。
もう何度目かの里帰り、来るたびに新たな思いが喜びとなって心を走る。久々に訪れた旧友との再会のような喜びにも似た思いに心が満たされる。
「おお……」
それが挨拶言葉。それからいつものような些細な宴。そして1日か2日の喜びの時間が楽しみの時間が短く過ぎると、婿は妻にした娘を連れて帰ってゆく。
「今度、いつかな……」
「ううーん……」
他愛のない別れの言葉である。そんな別れ際の単純な一言が、心の中では数ヶ月先の再会を黙約させた強い約束の一言である。そして見送りながら思うことは、故郷を遠く離れて嫁いでも、帰ることのできる「故郷」のあることを娘は意識しているのだろうかということだ。生まれ育った故郷は、思い出が凝縮された玉手箱。昨夜の些細な宴に、幼い日に口にした母の手料理の味を思い出しただろうか。そんな他愛もないことを思いながら、遠のいて行く車を見送り、無事な旅を願いながら心の中で小さく手を振る。
「故郷」と聞くといつも思い出すことがある。もう20年も前かもっと前かもしれないが、私は町の小さな病院で夜間の窓口業務をしていたことがある。夜間の外来患者の対応が主であったが、昼間の薬の受け取り、医療費の支払いと色々であった。今のようにパソコンに連動された事務処理ではなく「薬価・薬効」という黄緑色の分厚い冊子と電卓と鉛筆がすべてだった。
そんな日々のある夜、深夜の電話による人生相談と題したラジオ番組を耳にした。苦しみを打ち明けた18歳の富山の少女の話は忘れられない。
父は数年前に病死し、母も昨年病死した。大工の兄と私と妹の3人が残された。母が死んでから兄は仕事をしなくなった。私が何かを言うと兄は泣いている。私は高校を辞めてウエイトレスの仕事をしているが、10万足らずの給料だから、食べるだけで生活が苦しい。 〉〉〉