2010年12月冬・編集発行・野尻湖フォーラム

国際村診療所の思い出

長島金二

 私は平成22年9月18日に妻と野尻湖を訪ねました。

 42年前(1968年8月)に野尻湖国際村の中にあった診療所(避暑に来る外国の方のためにあった)に、ごく短い間ですが、住み込みで働いていたことがありました。その当時に勤務していた東京の病院での夏休み休暇を利用してのことでした。外国留学経験の豊かな関西の先生方から声がかかり、誘われるままに国際村にやってきたのです。当時私は医学部卒業後10年目で、米国ロスアンゼルスの2ヵ年の留学から帰国して1年ほど経ったころでした。

 今回、観光バスで、楽しみにしていた野尻湖を訪れましたが、湖畔での休憩時間は30分のみでしたので、野尻湖定期船の発着所付近の湖畔での散歩に限られました。ふと見ると近くの湖畔のレストランで屋外のテーブルセットの準備をされているお店の方がおられたので、お忙しいところを承知でお邪魔して、国際村がどの方向にあるのかをお聞きしました。親切丁寧に教えていただき、私の記憶にかすかに残ることをお話している中で、診療所は現在は無くなったと伺いました。

 湖畔で国際村のある向いの丘のほうを望み見て、一息ついてからバスへ戻りかけた時に先ほどのお店の方が声をかけてくださり、野尻湖フォーラム紙への投稿のお誘いを受けました。頂いて帰った「野尻湖The Forum」紙を読ませていただき、地元の方々の野尻湖への想いを知り、今回、記憶を辿りながら当時のことを書いてみようと思いました。拙文を記すことをお許しください。

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 診療所は湖畔より山へ登っていく途中にあり、その裏には山腹が急勾配で迫っており、裏の戸口のすぐ目の先の山腹に横穴が掘られていて、そこが冷蔵庫代わりで、牛乳などが入れられていました。診療所から山を下りたところの湖畔には小さな桟橋に区切られて子供用の水浴び場がありました。遅れて当地を訪れた私の子供たちも米国みやげのゴムボートを浮かべて、私の勤務の間、妻と時を過ごしておりました。

 


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